さなるグループ創業者 佐藤イサク氏追悼特集

2024-09-02

人間教育の実践、塾教師の質の向上、塾を取り巻く環境の改善
塾の地位向上と業界のさらなる発展を目指した
イサク氏の教育にかけた熱い想い

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6月24日、さなるグループの創業者佐藤イサク氏が病気のため75歳で逝去した。
イサク氏がさなるグループの第一歩となる佐鳴塾を開校したのは1973年。高度経済成長に伴う教育熱の高まりから、多くの塾が林立していた時期だ。公教育が神聖視される一方で、営利目的で教育を提供する塾は蔑まれていた。かといって当時の公教育が手放しに肯定できる質のものだったわけではない。学校には権威を笠に子ども達を理不尽に扱う教師も多かった。
今日さなるグループがここまで拡大できたのは、今でこそ一般的となっている「子ども達のやる気を引き出し、自ら学習させることの重要性」にイサク氏がいち早く気づき、人間教育を実践してきたからに他ならない。またイサク氏は、塾に向けられる侮蔑や偏見を払拭するべく、塾教師を正社員として雇用して育成し、塾教師の質すなわち塾教育の質を高め、塾に携わる人全てが塾を一生の仕事だと胸を張れるよう、塾の地位向上と業界の発展に尽力してきた。塾教師という職業が市民権を得るようになった現在ではその道のりの険しさを実感として知る人も多くはないだろうが、その歩みの原動力となった教育への情熱をこの機に紹介したい。
生前のイサク氏は生徒や社員達に対して、自分は彼らの「灯台」でありたいと語っていたという。人が困難に出会ったり人生の岐路に立たされたりしたときに、道を照らす指針でありたい――その想いがイサク氏の教育の根底に流れていたものだ。ここではイサク氏の人生を振り返りながら、その軌跡を辿る。

-生い立ち-

本名、イサク。
インパクト大な名前の由来

[右] 幼少期の佐藤イサク氏 [左] 幼少期の佐藤イサク氏とお母様

[右] 幼少期の佐藤イサク氏
[左] 幼少期の佐藤イサク氏とお母様

1949年、イサク氏は長野県飯田市で生を受けた。「イサク」という名は本名だ。敗戦間もない時期でも日本人はもっと海外で活躍すべきだと考えたイサク氏の父が、世界に通用するようにとつけた名で、旧約聖書の創世記に出てくる聖人、アブラハムの子「イサク」に由来する。「イサク」は英語では「アイザック」で、天才物理学者ニュートンと同じ名前になる。イサク氏は父からそう由来を聞かされ、誇らしさを感じたという。そして「139」と数字でも表現できるこの名を、数学の授業で「3の0乗は1。3の1乗は3。3の2乗は9。それで139。イサクだ」と生徒を刺激する材料にしていたというのは、根っからの教師であったイサク氏らしい。生徒達も「イサク先生」と呼び、慕っていた。本稿では敬意を込めて「イサク氏」と呼称する。

幼少期から見せた発想力と実行力

子ども達に勉強を教える佐藤イサク氏

子ども達に勉強を教える佐藤イサク氏

イサク氏の先祖は信州飯田藩の家老の家系だったが、その資産は第二次世界大戦の戦火により失ったという。父は東京大学在学中に学生運動に傾倒したことから特高警察に目を付けられ、一旦は長野の実家に身を隠した。
その後、東京から逃れて京都大学へ入学。卒業後は長野に戻って結婚し、一男一女に恵まれた。イサク氏とその姉だ。終戦後の混乱期、職を求めて一家で移住したのが静岡県浜松市だった。そこで父は私立高校教員の職を得た。
イサク氏は幼少期からいつも友達の輪の中心にいた。皆が自然と周りに集まる少年だったのだ。父は趣味人で稼ぐ以上に使ってしまうため、佐藤家はそれほど裕福ではなかった。そのため、イサク氏は幼い頃からハングリー精神が旺盛だった。欲しい物を手に入れるためには決して運任せにせず、あれこれ思考を巡らせ、努力した。
イサク氏は幼少時から機知に富んでいた。駄菓子屋で子ども達をひきつけるものに、平たい箱のくじ引きがあった。箱には仕切りがあり、それぞれの仕切りにおもちゃの景品が入っている。中身が見えないように天面は紙で覆われており、ミシン目を破って中の景品を取り出すというものだ。そのくじ引きでイサク氏は特等の水鉄砲を何度も引き当てた。
うらやましがる友達にイサク氏は「運がいいからね」と笑っていたが、これにはからくりがあった。地域の複数の駄菓子屋に置いてあるくじの箱が同じであることに気づいたのだ。これらは同じ工場で作られているのだろうと察し、景品の位置が同じなら特等の位置を覚えてしまえば良いと考えたイサク氏は、地域で一番繁盛しているお店に行き、穴だらけとなった箱を指して特等が出たかどうかを確認した。そして「特等出ちゃったのか。残念だな~。ちなみに特等はどこに入ってたの?」と尋ねたのだ。店主が指した位置を覚え、「新しい箱になったらまた来るね」と残念そうに店を出る。そして他店へと向かったのだった。

-佐鳴塾 始動-

学校や塾で受けた理不尽な扱いも
後の原動力に

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やんちゃな男子達の中心にいたイサク氏は、中学校でもとにかく目立った。授業中に教師の間違いを指摘したり、教師の教える解法よりもより合理的な方法を披露したりすることもあったため、教師から目を付けられていた。他の生徒達の前で教師を言い負かすことも多く、プライドの傷ついた教師に濡れ衣や言いがかりで教室から閉め出されたこともあった。そんな教師を見る度にイサク氏は、「自分は絶対にあんな卑怯な大人にならない」と心に誓ったという。
相手に権力や権威があっても無批判に従うことがないのは、進学実績が良いからと姉に無理強いされる形で入塾した塾でもそうだった。イサク氏にとってはその塾の授業がつまらなかったため、宿題はせず、行っても友達と遊んでいるような状態であった。そんなイサク氏の自宅にある日、退塾処分に処す旨が記された葉書が届く。学習態度が不良だという理由だった。
これは塾側からしたらやむを得ない処置であろうが、封書ではなく葉書で届いたので、イサク氏は「葉書で送るなんていじわるだなぁ。郵便屋さんも見るのに恥ずかしいじゃないか」と愚痴をこぼした。そして同時に、自分が塾の教師だったら教科書に書いてあることをただ教える単調な授業はせず、関連することがらをもっと知りたいと興味が出るような知的好奇心を刺激する授業をするのに、と考えた。教師による理不尽な扱いや退屈な授業さえも、イサク氏にとっては、教師とはどうあるべきか、教育とはどうあるべきかを考えるきっかけの一つとなった。

父の死が見せた教師という職業

高校時代の佐藤イサク氏とお父様

高校時代の佐藤イサク氏とお父様

イサク氏が地元の大学の工学部に在籍していた19歳のときに、父が亡くなった。その3年前に山登りで落雷に遭い心筋梗塞を起こしていた父は、一命は取り留めたものの度々発作を起こすようになり、高校教員の職も辞していた。以降、一家の生計は父が自宅の一角を利用して開いた小さな学習塾「佐藤塾」が支えることになり、イサク氏も高校生の頃から度々授業を手伝っていた。
葬儀には父の教え子が大勢駆けつけた。父が趣味人で借金もあったために、両親の間ではお金に関する口論が絶えず、その様子を見て育ったイサク氏は、それまで父のことをあまり良い父親だとは感じていなかった。しかし、敷地に入りきらないほどの教え子達が父を偲んで泣く姿を見て、イサク氏は父が教え子達に慕われる教師だったのだと実感し、胸が熱くなった。口々に「良い先生だったね」と言い涙する教え子の姿に、イサク氏は、父の生きた証や、教師という仕事にかけた想いを見た気がした。

佐鳴塾、始動

教鞭を執る佐藤イサク氏

教鞭を執る佐藤イサク氏

父が残した佐藤塾には20名の生徒がいた。イサク氏は、一旦は佐藤塾を引き継いで運営を試みたものの、じきに閉じてしまった。アルバイト講師ならともかく、学生の身で学習塾を経営することは思いの外大変なことだったのだ。だが、大黒柱を失った佐藤家では自ら働いて稼がなければ大学の学費も払えない。生活費を稼ぎながら父が残した借金を返済する必要もあったことから、イサク氏はアルバイトに明け暮れ、結局大学は留年してしまう。
大学の同期だった友人と一緒に塾を始めることになったのは1973年のことだ。イサク氏とその友人は学生時代に様々な起業のアイデアを語り合った仲で、「理科実験教室」を開く夢を語っていたこともあったのだ。友人は卒業後電子メーカーに就職してすぐに、会社に大きな利益をもたらす発明をしたが、その発明の対価が不十分であったことに不満を抱き、会社勤めを嘆いていた。
状況を打開したい大学生イサク氏と会社を辞めたい友人の思いがタイミング良く合致したことで、2人は夢の実現に向かって動き出すことにした。しかし理科の実験器具は非常に高価だった上、生徒が集まる保証もない。そこで2人は、佐藤塾に使っていたイサク氏自宅のプレハブの教室で学習塾を開き、資金を貯めてから理科実験教室を開くことにした。塾は地元にある湖の名前から「佐鳴塾」と命名された。現在のさなるグループの源流である。

鈴鹿英数視察で受けたカルチャーショック

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自宅の一角に開いた佐鳴塾は順調に生徒が集まったため、ほどなくしてビルの1フロアを借りてもう1教室を構えることにした。収入は大手企業の初任給の3倍近くにまでなった。
佐鳴塾の教室が4教室になった頃、浜松市内の他の塾の経営者から、浜松に塾の連盟を作ろうという声がかかった。組織的な情報収集や、模試や勉強会の共同開催など、個人塾ではできないことも複数の塾が集まれば可能になる。塾業界が活性化し、教育の質が上がれば塾の社会的地位も上がるし、生徒に還元できるメリットも大きそうだ――そう判断したイサク氏はすぐに会員となった。
あるとき、連盟の発起人であり理事長の職に就いていた塾経営者から県外の塾の視察に誘われた。三重県で急成長している塾があるとのことだった。会員達が複数の車に分乗して向かったのは鈴鹿英数。後にeisuグループとなる塾だ。
当時、鈴鹿英数には2階建ての独立した校舎が4ヶ所あり、800名を超える生徒を集めていた。2階建ての立派な建物には教室が3つと事務所が入っている。イサク氏は「こんな大規模に塾を運営することが可能なのだ!」と衝撃を受けた。事前に話を聞いていただけではイメージできなかったものが確かに目の前にある。自宅の一角に建てたプレハブとビルのワンフロアを借りて4教室を運営していた佐鳴塾の生徒数は300名。拠点数としては同じ4ヶ所だが、そこには圧倒的な差があった。まさにカルチャーショックだった。

-教育革命-

山本千秋氏との出会いと決意

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鈴鹿英数創業者の山本千秋代表を交えて意見交換をする場で、イサク氏はどうしても尋ねておきたいことがあった。山本代表の年齢だ。イサク氏が思い切って尋ねると、山本代表は33歳、当時のイサク氏より8歳年上だった。この日から、あと8年で鈴鹿英数の規模を超えるというのがイサク氏の目標となった。三重県と浜松では環境も人口も違うが、プレハブとビルのワンフロアではとても太刀打ちできないと考えたイサク氏は、プレハブを解体し、3階建てのビルを建てようと決意した。3階建てにしたのは鈴鹿英数を少しでも上回りたかったからだ。
イサク氏は浜松に戻るとビル建設資金の融資を受けるべく銀行に向かった。融資希望額は2500万円。現在の貨幣価値に直すと1億円ほどになる。しかし26歳の若者は銀行には全く相手にされず、申し込みの手続きにすらなかなかたどりつけなかった。1ヶ月ほどかけてようやく申し込みにこぎつけたが、結局融資はしてもらえなかった。

建設中の鷺之宮校

建設中の鷺之宮校

イサク氏が次に向かったのは地元の信用金庫だ。金利は高いものの、信金は銀行より友好的で、交渉には1ヶ月ほどかかったが、浜松市在住の保証人を2名立てるという条件付きで審査が下りた。この条件は浜松に親戚がいないイサク氏にとってかなり厳しいものだったが、無理を承知で塾連盟の理事長と市内で歯科医院を開業していた高校時代の同級生に頼み込むと、2人とも保証人になることを承諾してくれた。既に正社員を雇用し、その生活を担っている責任を感じていたイサク氏は、ともかく融資が得られることに胸をなでおろした。
ただ、融資の獲得に手間取ったこともあり、ビルの完成は4月末にまでずれ込んだ。そして、生徒募集で一番大事な3月を逃したことで、ローンの返済も当初の目論見通りにいかなくなってしまった。イサク氏は朝から夕方までは時給の高い建設現場でのアルバイトをし、夕方から塾で生徒達に教えた。働いても働いても稼ぎはローンの返済に消えてしまったが、新築ビルを構えての翌年は生徒募集が成功し、以降の経営は安定することとなった。

生徒のため、ときには学校にだって怒鳴り込む

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自身も中学校で能力の高さが教師に敵視される原因となった経験があったが、塾を始めてからイサク氏は、以前にも増して学校教育のあり方に疑問を持つようになった。例えば父親が中卒で工場勤務だという生徒を見下し、その進学の希望をけなしたり、女子の進学希望を軽視したりするなど、学校が生徒に対して持つ権力を背景として、教師による職業差別や性差別が横行していた。思い通りにならない生徒には調査書を書かないと脅すことすらあったという。
イサク氏は生徒が理不尽な扱いを受けていると知るやいなや、すぐさま彼らの学校に抗議に乗り込んだ。佐鳴塾は学習塾であると同時に生徒の人間的成長を見守る教育塾として、常に彼らの味方でありたいと考えていたのだ。だからこそ、生徒を見下すような教師を許せなかった。
公立校の教師はどれほど良い授業をしても給与が上がることはないし、よほどのことがなければ給与が下がることもない。教師間に能力の差が生じることを嫌うために競争の機会もなく、教師が成長しようとするための動機も得にくいのではないか――そう考えたイサク氏は、教育の質の向上のためには教師達の間に健全な競争が必要なのだと確信した。

子ども達が自分の未来を、可能性を、自分の意志と努力で切り拓いていけるように

イサク氏は自らの塾を「『学習塾』ではなく『教育塾』」だと呼び、社員にも繰り返しそう言い聞かせた。「学習塾」は問題を正確に速く解くノウハウや単語を覚え、入試を突破するための学力を訓練で身につける場だ。一方、「教育塾」は、なぜ学ぶのかを生徒達に自覚させ、未来への志を持たせるとともに、人としてどう生きるべきかを示したり、悩みを聞いて励ましたり、勇気を持てるよう背中を押してあげたりする場だとイサク氏は考えていた。
正しい動機付けさえしてやれば、勉強を無理強いされなくても、子ども達は興味を持ったことに自ら取り組むことができる――イサク氏は自身の経験でそれを知っていた。子どもはやる気になれば自発的に勉強し、成績も伸びる。大事なのは、子ども達に夢を与え、向上心や競争心を育み、勉学意欲を引き出してやる教育、前向きに生きる意欲を与え、熱い息吹を吹き込む教育だ。授業が明快でわかりやすいのはもちろん、精神面の育成にこそ力点を置き、子ども達が自分の未来を、自分の意志と努力で切り拓いていく手助けとなる教育――それがイサク氏の目指した教育だった。

「教育革命」のために

さなるグループ社員旅行

さなるグループ社員旅行

当初は理科実験教室のための資金稼ぎとして始めた塾だったが3、4年経った頃にはイサク氏はこの仕事に生涯を捧げようと決めていた。塾の運営を続けて行く中で公教育の現場に疑問を持ったイサク氏は、子ども達を取り巻く教育環境を変革すること、民間教育による「教育革命」の志に燃えるようになったのだ。そしてその実現のためには正社員の雇用が不可欠だと考えた。
教育は人生を賭けて取り組むべき神聖な仕事であり、アルバイトに頼るのではなく、正社員を雇用し、志を同じくする教師達を増やし、理想の教育を広げて行かなければならない。
イサク氏の拡大方針は営利目的というよりは「教育革命」のために必要なことだった。一緒に佐鳴塾を立ち上げた友人は、会社勤めが肌に合わずに退職していただけに、組織化の方針を受け入れることはなく、佐鳴塾から去った。
今でこそ塾が正社員を雇用することは当たり前のことだが、当時の塾業界ではまだ一般的ではなく、「これからの塾は正社員を雇用し、より組織化して広げて行く時代だ」と力説したイサク氏を、「正社員なんて雇ったらノウハウを盗まれ、生徒を引き連れて独立されるのがオチだ」、「足りない人手はアルバイトで埋めるのがセオリーだ」と、塾連盟のメンバーが笑うような時代だった。イサク氏に先見の明があったのだということは、現在の塾業界の様子を見れば明らかであろう。

-結局、僕は人が好きなのだ それに尽きる-

競争が質を向上させる

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塾の拡大路線に対しては「教育で金儲けをすべきではない」との声もあったが、公教育の現場が硬直化している原因の一つは教師間の健全な競争の欠如だと看破していたイサク氏は意に介さなかった。質に見合った報酬を与えることが、教師の質の向上に直結すると信じていたからだ。
教師達の間に競争が生まれることは子ども達にとっては良いことだ。良い授業をすればするほど給与が上がれば、教師は子ども達のために必死に努力する。教師達に良いモチベーションを与えることは、生徒達に高い質の教育として還元されることなのだ――より良い教育を追求するために、イサク氏はこの信念を貫き続けた。
業界の活性化や後進の育成にも心を砕き、晩年には一般社団法人 全国教育指導者育成協会(JELTA)の設立に寄与し、全国の賛同塾とともに、教師の学識を証明する「日本教育士検定」ならびに教師たちが切磋琢磨する「全国名教師授業大会」を開催し、私塾教育の質の向上のためのプラットフォーム作りに参画した。
イサク氏が「自分が生きていけるだけの収入で十分」と考える人間だったなら、現在のさなるグループはなかっただろう。無私に教育の現状を憂う心を持ち、その状況の打開のために行動し、業界内の啓蒙にも努めた人間だったからこそ、その情熱が「佐鳴塾」を生徒や保護者の支持を集める塾の集合体へと成長させていくことになったのだといえよう。

株式会社化と大躍進

1976年、イサク氏は「佐鳴塾」を「佐鳴学院」と改め、株式会社化した。志を同じくする者に安心して勤めてもらえるよう組織として整備するためだ。また、教室を冷暖房完備にするなど、子ども達の学習環境向上のための設備にも積極的に投資した。情熱のこもった授業と設備の整った教室はたちまち評判を呼び、地域の子ども達はこぞって佐鳴学院に詰めかけた。
この頃、浜松の塾連盟の加入塾は50程に増え、イサク氏は連盟の理事長職に就いていた。連盟は単なる親睦団体ではなく、統一模試の実施や学校説明会の主催など、目的を持って行動する業界団体に変わりつつあった。いずれもイサク氏の提案からだ。イサク氏は塾の社会的地位の向上を目指していたこともあり、手弁当で連盟の活動に大きな労力や時間を割いていた。 
しかしイサク氏の革新的な活動を支持しない理事たちと方針の齟齬が生じたこともあり、イサク氏は塾連盟を脱退することになった。当時の塾連盟には、他塾の教室の2キロメートル以内には教室を出さないという加盟塾間の紳士協定が存在していたが、はからずも連盟を脱退してこの紳士協定から解放されたことが、佐鳴学院の浜松での大躍進を可能にすることとなった。

ただただ、真摯に教育と人に向き合ってきた

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塾設立には免許も認可も必要ない。誰でもできるからこそ、詐欺業者や悪徳とまではいかないが不誠実な塾が見られたのも確かだ。ひと昔前はそんな時代だった。合格者数の水増しや合格者の買収、ライバル塾への誹謗中傷などを行う塾もあった。そんな時代にあってイサク氏は、生徒や教師達の心を鍛えるところから始まる教育を積み重ねてきた。それは佐鳴の地域における圧倒的な存在感や進学実績という形で顕在化し、教育に対するモラルの低い塾を淘汰することとなった。
教育の事業はまず社会貢献であるべきだと考えていたイサク氏は、「優れた指導者たり得る人材、すなわち『Noblesse oblige』の観念を備えた真のエリートの育成こそ、我々が果たさねばならない社会的責任に他ならない」と、「学力を以て社会に貢献する人材の育成」をさなるグループの社是として掲げた。また、大きな企業グループへと成長した自社の社員達に、慢心せずに教育の原点を見つめさせるため、イサク氏は折に触れて「最大であるよりも最良であることを誇れ。最良であるがゆえの最大であれ」と語った。
さなるグループの成長の根幹にあったのは、「子ども達の将来のために、日本の未来のために、どういう塾が勝たねばならないか。それは学力を以って社会に貢献する人材を育てる塾だ。その飽くなき追求の結果として、規模の拡大があるのでなくてはならない」というイサク氏の固い信念であった。
もちろん日本には、イサク氏と同様に、誠実に教育と向き合ってきた塾経営者が多くいる。その中の一人がイサク氏であったのだが、現在に至るまでの塾業界の発展や塾教師の地位向上は、イサク氏をはじめとする真摯な教育者達の功績であることを特筆しておきたい。

「最高の教育」を提供する最良の教育企業を目指して

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イサク氏はひたすら生徒を育て、社員を育て、組織を育ててきた。さなるグループは静岡から全国に進出し、M&Aを経て傘下となったグループ会社を合わせると1都12県で448校を展開。生徒数は6万名を超え、卒業生も50万人を超えている。イサク氏から直接教えを受けたかどうかにかかわらず、イサク氏の想いは社員や卒業生を通してこれからも引き継がれていくだろう。 
一人でも多くの子ども達に「最高の教育」を提供したいというイサク氏の想いは生涯一貫していた。今を生きる子ども達に両手に抱えきれないほどの夢と希望を持ってもらいたい、そして明日に向かって力強く前進する力をつけてもらいたい――イサク氏から受け継いだその想いを胸に、さなるの教師達は今日も夢を語り、学問の楽しさを語り、子ども達を応援している。
「結局、僕は、人が好きなのだ。それに尽きる」
イサク氏は生前そう語ったという。この言葉は今後も塾業界で教育の仕事に携わっていく我々に、教育という営みの根本は無条件の人間愛なのだと教えてくれる。

参考:矢作櫂著「覇気」、70th Anniversary 佐藤イサク


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